ネコ型オートマトン

王様の耳はロバの耳。

「少女環境活動家」という属性は諸刃の剣

グレタ・トゥーンベリ氏の活動に関心があるかどうかといえば、実のところ個人的にはそれほど興味が無い。環境問題について考えることは時折あるが、それがすなわち彼女への賛意に繋がるかといえば、そういうものではないと思う。彼女とその周辺の活動は環境問題に対するアプローチのひとつに過ぎない。しかし、その一種のカリスマ性というか、欧州をはじめとする各地域の若者に支持を広げていった、アイコンとしての力の強さは大したものだと思う。

 

ただ、その力の源泉が「十代の少女」であることに、同時に危うさも感じる。よく指摘されることだが、これが「四十代のおっさんが会社を辞めて始めた活動」だったら、ここまで拡がることはなかっただろう。この辺りは、電通の新人女性社員が自殺したことで、ようやく労働環境改善の議論が前進しだしたのに似ている。若い女性というのは兎角アイコンとして持ち上げやすいのだろう。それによって関心を持つ人が増えたり、議論が盛んになること自体は、それはそれでまあ結構なことではあるのだが、社会にある種の巫女や生贄が必要とされるかのような実態は残念なことであるし、先に述べたように危ういことでもある。その理由はふたつある。若い女性でなければ議論のきっかけになりにくいというのは突き詰めれば女性蔑視であること、そして、若い女性による努力や犠牲への批判は許されないという風潮は言論封殺に繋がることである。

 

後者はグレタさん周辺の話題では特に顕著に感じられるところで、小さな疑問を差し挟んだだけでも「グレタさんが十代の少女だから侮っているのだ」というようなレッテルを問答無用で貼り付ける自称賛同者が実に多い。これでは少し意見の異なる賛成論者をも萎縮させ、活発になるべき議論が抑制されてしまう。やがて腫れ物扱いとなり、結局は話題も縮小していくだろう。そして世界に環境カルトがひとつ増えるだけに終わってしまう。

 

そもそも、そういうレッテル貼りに余念の無い人物は、自身が彼女のことを侮っているのではないか。「十代の女の子が何やら頑張っていて、活動も目立つから応援してやろう」くらいの気分で、表面上賛同しているようにしか思われない。彼らの来歴を眺めてみれば、この先、グレタさんが彼らの意に沿わぬことを始めたとき、あっという間に手のひらを返すだろうことも目に見えるようだ。そんな連中の賛同など、グレタさんも迷惑なのではなかろうか。

 

グレタさんの運動を真に応援するのなら、「十代の少女の活動」という側面をこれ以上前に押し出すべきではない。それは彼女の真意を見えづらくするし、悪意ある大人による反対意見の封じ込めにも悪用される。彼女を祭り上げるだけでなく、彼女らの望む世界を実現するための現実的な議論を行うことが、支援する大人の役割ではないだろうか。「少女環境活動家」という属性が持つ特別な効果は認めざるを得ないが、それは彼女の活動をやがて破綻させかねない諸刃の剣でもある。グレタ・トゥーンベリ氏の活動は、次のステージへと成長すべき時期に差し掛かっている。