ネコ型オートマトン

王様の耳はロバの耳。

正義のために戦う人たちは常に敵を欲している

近頃のリベラル派のほとんどは、自分たちの信ずる社会的正義の実現にはさほど興味が無く、慎重派や反対派を「正義たる我々に刃向かう者=悪」として断罪し、非難し、攻撃することに情熱を傾けてばかりいるように見える。自分たちの思想を宣伝することには大して興味が無さそうであるし、それが真に多くの人に望まれているかどうかなど考えもしないのではなかろうか。

ある社会的思想が誕生するとき、そこには何らかの必然がある。一方で、それと異なる意見が生じるのもまた必然である。現状に満足している者がそれを変更することに良い顔をしないのは当然として、不満を抱いている者も特に賛同しないというのはそれほど不思議なことではない。変更したとて良いように変わる保証などどこにも無いからだ。前者を反対派といい後者を慎重派という。反対派はともかく慎重派をどのように味方に引き込むか、社会運動の成否は概ねそこにかかっている。

ところが、リベラル派にはどうも性急な運動家が多いのか、反対派を潰しさえすれば慎重派は自分たちに諸手を挙げて賛同すると、そのように思われている節がある。変化を起こすにはそれなりの力を働かせる必要があり、反対派に対する攻撃もそれはある程度必要であろう。が、反対派を攻撃する姿ばかり見せられて、慎重派はどう感じるだろうか。その正義が支配的になったとき、彼らの思想に少し意見しただけで迫害されると思いはせぬだろうか。左様な心配をしなければならぬような変化は、果たして良い変化と言えるだろうか――その辺の想像力が、近頃のリベラル派には足りていないのではないか。

彼らが攻撃に固執する理由は他にもいくつかあるだろう。敵の存在は集団の結束を高め、新たな賛同者の獲得に繋がることも稀にある。戦う姿は単純に憧れの対象となりうるし、他者を攻撃することには快感を伴うからだ。誰かを攻撃していたら味方が増えた、そんな数少ない事例が成功体験となり、反対派への執拗な攻撃を有効な戦術として誤認しているのかもしれない。あるいは、戦う姿に自らが魅了されてしまっている場合もあるだろう。どうであれ、その姿は「正義」という言葉の前に思考停止した姿である。

正義感には一種不可思議な陶酔感が伴う。その陶酔感は賢明な人間の眼すら簡単に曇らせる。曇った眼には慎重派さえ敵だと映ると見えて、向かうところ全てに切りつけるように先鋭化していく社会運動も少なくない。そんなことをしたところでますます孤立していくばかりだが、すると今度は悲愴感を帯び始め、陶酔感が一層高まるから困ったものだ。

元来、刃向かう者を容赦なく切り捨てるのは支配者層の役目である。リベラルとはそんな支配体制を否定し、固定化した秩序を変動させ、被支配者層を解放するものではなかったか。そのために何をしなければならないか、その敵は本当に敵であるのか、一度立ち止まって熟考してもらいたい。

なぜCoinhiveを無断で動かしてはいけないか

kamo.hatenablog.jpCoinhive事件については最高裁に持ち込まれたので有罪無罪が決定した訳ではないが、高裁で有罪判決が出たことに対する遺憾の声があちこちで散見される。高裁の逆転有罪は最高裁判例を作るためのテクニカルな常套手段だという声もあるが、それはそれとして、個人的にやはり無断採掘は適法とは見なし難いと思うので、冒頭に掲げたブログに反論してみたい。

 

リンク先で、著者は自らの意見を次のようにまとめている:

 

プログラマが怒っているのは、

  • Coinhiveと広告は同じものなのに片方だけウイルスはおかしい。
  • Coinhiveは別に悪いことをしているわけでもない。そこらの「ウイルス」とは全然異なっている。
  • 新しい技術はみんなの知らないものなのに、それを「人々の意図に反するもの=ウイルス」というのはひどい。

ということ。

 

 そこで、これら各点に対して順に見解を述べてみたい。

 

Coinhiveと広告は同じものなのに片方だけウイルスはおかしい?

Webサービスの収益確保という点で両者の目的は一致するものの、手段として「同じもの」とは言い難い。冒頭記事のコメントにもあったが、広告は閲覧者が認識できることで、次回も利用を続けるか別のサービスを使うか選択する余地がある。利用し続けるなら、仮に広告を邪魔に感じているとしても、少なくとも容認してはいると解することが可能だ。しかし無断採掘となると閲覧者が認識することは難しく、つまり事後的にではあれ容認しているとは見なしがたい。であれば、Coinhiveを設置するなら事前に(明示的に)閲覧者の同意を得るべきであって、この点で同じものとは言い難いのである。

 

対して、最近の広告もバックグラウンドで様々なコードを動かしており、それが許されるならCoinhiveだって、という声も聞かれる。だが、広告の情報収集コードの類いは、つまるところ効率的な宣伝行動、つまり広告を表示するために動いているもので、広告の一部と解することができる(閲覧をやめることで回避できる)。

 

Coinhiveは別に悪いことをしているわけでもない。そこらの「ウイルス」とは全然異なっている?

不正指令電磁的記録に関する罪、いわゆるウイルス作成罪のことを言っているのだと思うが、同罪が真にコンピューターウイルスの作成だけをターゲットにしているのでないことは条文からも明らかであり、どちらかといえば「迷惑プログラム等作成罪」くらいの方が近い。まあ、この点は単に勘違いというものだろうと思われる。

 

また、議論の核はCoinhiveそのものが悪かということではなく、Coinhiveを無断で設置し採掘させたことが罪に当たるかということなので、この点は前項で論じたとおり、少なくとも閲覧者の同意を得ていない行為ではあっただろう。被告にしても、設置当時、同意を得るようにした方が良いのではというアドバイスを受け、その通りだと思ったという主旨のことを書いている。もし閲覧者の同意を得た上で動かしていたCoinhiveが同様に有罪となるなら、それは怒るべきだと私も思う。

 

新しい技術はみんなの知らないものなのに、それを「人々の意図に反するもの=ウイルス」というのはひどい?

新しい技術が世間の反発を招くのはいつの世も同じで、ラッダイト運動のように後からお笑い種となるような社会現象まである。時間が経つにつれて新技術が受け入れられ、社会の発展を促してきたことを鑑みると、こう言いたくなる気持ちもよくわかる。

 

だが、やはりこれも勘違いだと思うのだが、今回の事件についてはあくまで無断で採掘を行ったという点が罪に問われているのであって、「新しくてよくわからないから」有罪になったわけではない。こう主張するのは流石に論点のすり替えというものではないかと思う。

 

最後に

比較的新しい技術に対して旧態依然とした判決が出た、そんな感じの憤慨が多いように見受けられるが、実際には本件の論点はシンプルなものであると思う。サービスの提供者と利用者は、なるべくフェアな立場でなければならないということである。採掘プログラムを目に見えない形で無断で動かすこと、すなわち、利用者がまったく気付けない形で提供者が実利を得ることは、天秤がサービス提供者側に傾き過ぎる恐れがあると司法が判断した、今回の判決はそういうことだろう。Coinhiveそのものが否定された訳ではないことに注意しつつ、冷静な議論がされたらと思う。

「少女環境活動家」という属性は諸刃の剣

グレタ・トゥーンベリ氏の活動に関心があるかどうかといえば、実のところ個人的にはそれほど興味が無い。環境問題について考えることは時折あるが、それがすなわち彼女への賛意に繋がるかといえば、そういうものではないと思う。彼女とその周辺の活動は環境問題に対するアプローチのひとつに過ぎない。しかし、その一種のカリスマ性というか、欧州をはじめとする各地域の若者に支持を広げていった、アイコンとしての力の強さは大したものだと思う。

 

ただ、その力の源泉が「十代の少女」であることに、同時に危うさも感じる。よく指摘されることだが、これが「四十代のおっさんが会社を辞めて始めた活動」だったら、ここまで拡がることはなかっただろう。この辺りは、電通の新人女性社員が自殺したことで、ようやく労働環境改善の議論が前進しだしたのに似ている。若い女性というのは兎角アイコンとして持ち上げやすいのだろう。それによって関心を持つ人が増えたり、議論が盛んになること自体は、それはそれでまあ結構なことではあるのだが、社会にある種の巫女や生贄が必要とされるかのような実態は残念なことであるし、先に述べたように危ういことでもある。その理由はふたつある。若い女性でなければ議論のきっかけになりにくいというのは突き詰めれば女性蔑視であること、そして、若い女性による努力や犠牲への批判は許されないという風潮は言論封殺に繋がることである。

 

後者はグレタさん周辺の話題では特に顕著に感じられるところで、小さな疑問を差し挟んだだけでも「グレタさんが十代の少女だから侮っているのだ」というようなレッテルを問答無用で貼り付ける自称賛同者が実に多い。これでは少し意見の異なる賛成論者をも萎縮させ、活発になるべき議論が抑制されてしまう。やがて腫れ物扱いとなり、結局は話題も縮小していくだろう。そして世界に環境カルトがひとつ増えるだけに終わってしまう。

 

そもそも、そういうレッテル貼りに余念の無い人物は、自身が彼女のことを侮っているのではないか。「十代の女の子が何やら頑張っていて、活動も目立つから応援してやろう」くらいの気分で、表面上賛同しているようにしか思われない。彼らの来歴を眺めてみれば、この先、グレタさんが彼らの意に沿わぬことを始めたとき、あっという間に手のひらを返すだろうことも目に見えるようだ。そんな連中の賛同など、グレタさんも迷惑なのではなかろうか。

 

グレタさんの運動を真に応援するのなら、「十代の少女の活動」という側面をこれ以上前に押し出すべきではない。それは彼女の真意を見えづらくするし、悪意ある大人による反対意見の封じ込めにも悪用される。彼女を祭り上げるだけでなく、彼女らの望む世界を実現するための現実的な議論を行うことが、支援する大人の役割ではないだろうか。「少女環境活動家」という属性が持つ特別な効果は認めざるを得ないが、それは彼女の活動をやがて破綻させかねない諸刃の剣でもある。グレタ・トゥーンベリ氏の活動は、次のステージへと成長すべき時期に差し掛かっている。

表現の自由は「お気持ち」で制限されるものではなく、蛮行の言い訳になるものでもない

献血ポスターに巨乳キャラクターのイラストが使用されている件でいちゃもんを付けた女性弁護士の話が唐突に話題になっているが、そのイラストには特に肌の露出がある訳でもなく、それはまあ中には不快に感じる人がいるというのもわからないでもないが、だからといってセクハラと糾弾するのはやはり無理筋だろうという思いを抱えつつ、日本はやはり表現や言論の自由が保障されている国なのだなと、あらためて感じ入った次第である。その弁護士があいちトリエンナーレの表現の不自由展の開催には強く賛同の意を表しているのも面白い。法律と自らの良心に忠実であることは法律家の重要な素養だが、少なくとも後者の点で氏は至極立派な法律家であると言えそうだ。

表現の不自由展に展示されている作品が思想的に随分と偏っているというのは多くの人が指摘するところだが、思想の点は抜きにして、特に話題になっている二つの作品について、良い機会だからここに所感を残しておきたい。

私の印象として、慰安婦少女像は芸術として取り扱って良いと思うが、昭和天皇の肖像写真を燃やす展示は芸術ではない。

前者は、戦時中の事実がどうであったかとか、日韓関係が微妙な時期に政治的主張を拭えない展示をすることの是非だとか、色々と考えなければならぬことはあるにせよ、それが「慰安婦」という一般化された人間の像であり、表情に何か読み取れるものが籠められている以上、やはり芸術作品たりうるものであろう。これは展示の是非とはまったく別の問題だ。個人的には私費ならともかく公金で開く展示会にはふさわしくないように思うが、話が長くなるのでそれについてはこれ以上は触れない。

一方、後者は芸術とは到底言えない。故人であり、公人であり、歴史的に重要な意味を持つ人物であるとはいえ、昭和天皇自身はひとりの人間である。その肖像写真を燃やすという行為はその尊厳を侵すもので、それは決して表現の自由に優越するものではない。よくデモ行進などで敵対勢力の指導者の写真を汚したり燃やしたりする行為が見られるのは、それが彼ないし彼女の尊厳を踏みにじる攻撃行動として広く認識されているからだ。それと同じ行為がどうして芸術と言えようか。風刺画などとはまったく次元の異なる蛮行と言って良い。

日本では個人に対して様々な自由が保障されている一方、その自由は公共の福祉に反しない限りで使用しなければならないとされている。そのバランスは常に難しい問題だが、ある表現が特定個人の尊厳を著しく損なうのであれば、それは表現の自由が過度に行使されたとして良いと考える。逆に、そうでないなら表現の自由は最大限に保護されなければならない。これは思想信条や個人の好みとは切り離して考えるべき事柄だろう。

秋の宵にパブリックビューイングを

先日、ふと思い立ってラグビーパブリックビューイングに出かけた。日本代表がアイルランド代表を破った、あの歴史的な試合である。ラグビーは世界的に人気のあるスポーツで、日本にもファンは多いと聞くが、野球やサッカーと比べるとどうしても一枚落ちる。それで気軽に会場に入ったのだが、観戦ブースは結構な混雑ぶりで、少し驚いた。と同時に、ああ本当に盛り上がっているのだなと安心もした。別に私が心配する筋合いのものでもないのだが、ホスト国に暮らす者としては、やはりどちらかといえば盛況な方が責務を果たせている気分になるものだ。

 

かくいう私自身はというと、国際試合をときどき見る程度のにわかラグビーファンである。実際の試合をスタジアムまで観に行ったことも無い。パブリックビューイングも今回が初体験である。それでわかったのだが、パブリックビューイングというのは、観戦初心者こそ行くべきものだ。あれはつまるところ巨大スクリーンに流れているテレビ中継を大勢でワイワイと眺めるイベントで、大抵は周囲にそのスポーツが好きな人間が集まっている。タックルの度に歓声が上がり、ボールを取られればどよめきが走り、トライが決まれば割れんばかりの拍手に沸く。

 

そういう場所に放り込まれれば、ほとんど見たことの無いスポーツでも、何となくゲームの勘所がわかってくる。盛り上がり方がわかれば楽しくなるし、そうなれば観戦者としては初心者を脱したようなものだ。もっとも、ラグビーで言えば、ボールを前に投げてはならぬというような最低限のルールは心得ておいた方が楽しめるだろう。逆に言えばそれくらいで充分楽しめるので、細かいルールなどは追々でよろしい。

 

10月だというのに秋と言うには少し気温が高いような気もするが、夕方からは多少は過ごしやすくなった。選手として走り回る方は暑くて大変そうだが、観戦する分には気持ちが良い。何と言ってもビールを屋外でほどよく楽しめる季節だ。秋の宵にはラグビーワールドカップパブリックビューイングと洒落込むのも、なかなか良いものである。

パフォーマンスの暴走、あるいは孤立する韓国

日韓関係がいよいよ危なくなってきた。それどころか米韓もわからなくなってきた。私はここ一ヶ月ほどの日本の方針は米国政府に話を通してあったのだろうと見ていたのだが、流石に日米の「韓国外し」は無いだろうと思っていた。それが日韓GSOMIAの破棄で潮目が変わった感じがする。ひょっとすると日米のみならず中露も加わって、韓国、というより朝鮮半島に関するある合意のようなものが形成されているのだろうか――と思わなくもないが、流石にそれは妄想の類いだろう。

 

ただ、米軍は、韓国撤退を現実的にあり得ると考えて動いているかもしれない。もしそうなれば、米国の対中防衛戦略上、台湾が大きな意味を持ってくる。F16の売却もそういった一環だろうかなどとも思う。日本も憲法九条がどうだなどと安閑としていられなくなるだろう。もっとも、現在だってそれほど平穏ではないのだが。

 

文在寅大統領という人は子女を海外に留学させていて、そのうちのひとりの留学先は日本の大学だそうだ。彼は国内外で親北朝鮮派として認知されているが、必ずしも反米反日という訳ではないのかもしれない。よく知られているように、韓国の反日運動は国内政治の都合であることが多く、有体に言えば大統領の人気取りパフォーマンスであることが多い。文大統領もその慣例に従って経済政策の失敗を挽回しようとしたのだろうが、どうも制御不能になりかけている印象を受ける。あるいは、既に制御不能で暴走しているのかもしれない。

 

朝鮮半島は場所が場所だけに古来から難しい立場に幾度も置かれてきた。突っ張らなければたちまち周辺に呑み込まれてしまいかねないという事情も理解できる。だが、突っ張りすぎて内側から国が敗れては元も子も無い。韓国政府にはどうか冷静な舵取りをしてもらいたいものだ。

平和教育が嫌いである

いわゆる平和教育というのが嫌いである。平和が嫌いだというのではなく、平和を愛し願っていればそれだけで平和になるとでも言いたげな教育方針が嫌いなのである。平和を愛する心というのは平和のための必要条件ではあるが十分条件ではない。平和について知り、愛する気持ちが無ければ平和な世界を目指そうという気概も起きないだろうから、そういう精神を教え込むのは決して無駄ではない。が、その先、具体的にどのように平和な世界を目指すかを考えさせる教育をしなければ、それは充分とは言えない。

 

もっとも、これは私の個人的な体験に基づいた感情だから、他の地域だとか、あるいは最近はもっとましになっているのかもしれない。この時期になるとNHKで太平洋戦争の特番をやるのがお約束になっているが、その内容も年を経るごとに少しずつ変わっている。敗因や、そもそもなぜ戦争に突入してしまったのかを分析し、考察して、反省と教訓を得ようとするものも増えてきた。そういう流れが主流に、もっと言えば中学校教育の現場でも実践されていれば良いと思う。

 

平和教育のおかげで太平洋戦争は国の責任、民衆はただただ被害者だと思っている人も多いが、満州事変からこっち、戦争拡大は当時の世論だった。新聞が煽ったせいだという人もいるが、消費者からの評判が良くなければ、新聞だってそんなことを継続的に書いたりはしない。ソ連の工作もあったとはいえ、あの戦争の責任は当時の大衆自身にあったと言っても過言ではない。

 

無論、当時も戦争に反対した人はいた。政府や軍部の中だけではなく、市井にも彼我の国力差を冷静に見極めて、勝てるはずがないと考える人もいた。だが、ほとんどの国民はそうではなかった。それで、世論が開戦を後押ししてしまった。だからこそ、ひとりでも多くの国民に「正しく平和を求められる」教育が必要なのだ。「平和を愛する」感情だけを支えにするのでは、反対側にも簡単に煽動されてしまう。実際、マスコミに煽られるだけでそれが正義だと思い込んでしまう人は想像以上に多い。最近で言えば2009年の民主党政権誕生などはその好例だろう。

 

幸か不幸か最近はマスコミの影響力がかつてに比べて弱くなってきて、あれだけのバッシングにも関わらず現政権を打倒することはできていない。しかし、それに代わってネットでは様々な怪しげな言説が大手を振るっている。形を変えただけで、むしろ煽動される危険性は潜在的には増しているとさえも言える。国民ひとりひとりが冷静に判断して国を正しくコントロールできてこそ、真の平和国家を築くことができる。そのために、合理的な平和教育が推進されることを望むし、最近の学校教育がそのように改善されていることを願っている。