ネコ型オートマトン

王様の耳はロバの耳。

感情と前近代的論理

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ここで描かれているかつての「帰りの会」が事実かどうかはちょっと眉唾ものだが、今年で41歳の私にはまるでその光景がありありと浮かぶような、そんな生々しさを持っている。そういうこともクラスによってはあっただろうな、と思えた。多かれ少なかれ似たような経験が私自身にもあるし、飲み会などで子供の頃の話になって帰りの会に話題がいくと、大抵は同じような経験があちこちから苦笑交じりに飛び出してくる。真偽はともかく、帰りの会の「反省会」で正しさが暴走しやすいというのは、共通認識と言って良い。

 

子供というのは未熟なもので、感情の赴くままに動く。多少論理的に見えてもそれは乏しい知識に基づいているので、よくて前近代的な論理でしかない。だから、大人が考えるような議論や反省などは望むべくもない。小学校の帰りの会で正しさが暴走するのは当たり前なのだ。その辺を諭す能力があると自覚している教師でなければ、本来うかつにそういうものを開催すべきではない。

 

それなら、大人の方が多いはずのSNSが、帰りの会になぞらえられて妙にしっくりくるのはなぜだろうか。それは、大人のほとんどもまた、感情の赴くままに動いているからだ。「正しさの反対側にあるのは別の正しさ」だということを理解するにはある程度の論理的思考が必要で、直感的には理解しにくい。個人にとっては「正しさと正しくなさ」しか存在しないからだ。一般大衆がこぞって利用している現在のSNSが「帰りの会」と化しているのはその辺に原因があるのだろう。議論が「正しさと正しくなさの対立」だと思っている人間がこの世には多すぎる。Twitterは人類には早すぎたという冗談を時折見かけるが、あながち冗談でもない。

 

それでも、人々が声を上げやすくなったこと自体は良いことだと思える。というより、思いたい。埋もれていた声や見逃されていた視点が表出することによって世界が良い方向に向かうなら、それは歴史的なことだ。だからこそSNSの現状は残念でならないのだ。

 

この状況を打開するには、ユーザーひとりひとりがもっと賢くなるしかないのだろう。個人的には、最近よく見かける、疑わしいと思ったら罰して良いとか、その罰は自分たちで与えて良いだとか、モダンな法体系と真っ向から対立する前近代的な考え方だけでもやめてほしい。左様な考え方を止めるだけでも議論は成立しやすくなるし、その先にある目的達成だってぐっと近くなる。主張する側にとってもそれはメリットとなるはずなのだが、まあ難しいのだろうな。

 

こういう理屈を感情に変換して伝える手法が、何か無いものだろうか。