ネコ型オートマトン

王様の耳はロバの耳。

SNSユーザーから某巨大掲示板ユーザーに戻りつつある今日この頃

インターネットの普及が本格的に始まったのが1995年頃で、私が使い始めたのが1997年だから、日本におけるインターネット商用利用の歴史を私は体感してきたと言ってもそれほど責められることは無いと思う。近頃はインターネット老人会という語があり、私にしても老人よろしく「2000年前後のネットは良かった」などと言ったり思ったりすることもしばしばだが、実際あの頃のネットはある程度のスキルやリテラシーが無ければ使えないものだったから、利用者の数も質も程よくて、本当に居心地が良かった。

 

何が良かったと言って、ネット上に自分の意見――意見でなく小説でも絵でも写真でも何でも良いが、とにかく何かを公開しようと思っても、現在のようにTwitterに投稿すれば済むような手軽なものではなかったのが良かった。あの頃はHTMLを覚えて個人ホームページを作らなければ何も始まらなかった。それでいて、HTMLを覚えさえすれば世界に向けて自分が何かを発信できるという強い解放感が実に甘美だった。当時もネットを閲覧するだけというユーザーはいたが、HTMLが目に一丁字も無い人の割合は今よりずっと少なかっただろう。やがてCGIによるBBSやチャットが普及して、言葉をネットに放流するハードルが下がり、その傾向はどんどん強まって、ブログが登場し、SNSが登場し、どんどん便利になっていった。書いていたら当時のワクワクした感じを思い出したが、あの頃のネットユーザーで、現在のネットの惨状を予想できた人がどれほどいただろうか。

 

日本のネットの歴史で外せないのが、長らく「2ちゃんねる」として親しまれ、今なお「5ちゃんねる」として存続している巨大掲示板サービスである。先行する同様のサービスは既に存在していたが(というよりそこから独立したのが2ちゃんねるだったが)、ネットに言説を公開することのハードルを著しく下げ、コアからカジュアルまであらゆる階層のユーザーが集結したサービスは、私の知る限り日本ではこれが初だったのではないかと思う。ある意味でSNS的なサービスのはしりとも言えるが、IDが固定ではないのでSNSではない。とにかくそういった場であったからユーザーのリテラシーもまちまちで、大小問わず様々な事件や問題が多発したのはご存知の通りである。ただ、そういった事件は初期よりは発展期以降、ユーザーが大量に流入するようになってからだったと思う。

 

2ちゃんねるのようなサービスは日本にだけあった訳ではないので、ここから発想して、ユーザーIDが固定の交流サービス、すなわちSNSが出てくるのは自然な流れであったろう。個人とIDがしっかり紐付いたサービスによって、ネットはよりしっかりとした世界になるに違いないと当時は思われたものだが、その現状はご覧の通りだ。いったいどこに間違いがあったのかとときどき考え込んでしまう。要するにリテラシーの高いユーザーの比率というのはいつの時代も一定で、人類の大多数には、自分の思考が世界中に拡散するというのがどういうことかを想像する能力が備わっていないのかもしれない、などと考えてしまう。SNSにしても、どのサービスも初期は比較的ずっと平和だった。問題が頻発するようになったのはユーザー数が激増してからだ。2ちゃんねると同じ歩みを辿っている訳だ。

 

ただ、SNSが一般に普及したことで、個人的には良いこともあった。5ちゃんねるから程よくユーザーが間引きされたことである。一種の伝統として妙な言い回しや口の悪さが残ってはいるものの、SNSのタイムラインよりずっと平和で安らげる感じがする。ネットでも現実でも、一番不気味で恐ろしいのは、結局は一般大衆だということなのだろうか。

感情と前近代的論理

ten-navi.com

ここで描かれているかつての「帰りの会」が事実かどうかはちょっと眉唾ものだが、今年で41歳の私にはまるでその光景がありありと浮かぶような、そんな生々しさを持っている。そういうこともクラスによってはあっただろうな、と思えた。多かれ少なかれ似たような経験が私自身にもあるし、飲み会などで子供の頃の話になって帰りの会に話題がいくと、大抵は同じような経験があちこちから苦笑交じりに飛び出してくる。真偽はともかく、帰りの会の「反省会」で正しさが暴走しやすいというのは、共通認識と言って良い。

 

子供というのは未熟なもので、感情の赴くままに動く。多少論理的に見えてもそれは乏しい知識に基づいているので、よくて前近代的な論理でしかない。だから、大人が考えるような議論や反省などは望むべくもない。小学校の帰りの会で正しさが暴走するのは当たり前なのだ。その辺を諭す能力があると自覚している教師でなければ、本来うかつにそういうものを開催すべきではない。

 

それなら、大人の方が多いはずのSNSが、帰りの会になぞらえられて妙にしっくりくるのはなぜだろうか。それは、大人のほとんどもまた、感情の赴くままに動いているからだ。「正しさの反対側にあるのは別の正しさ」だということを理解するにはある程度の論理的思考が必要で、直感的には理解しにくい。個人にとっては「正しさと正しくなさ」しか存在しないからだ。一般大衆がこぞって利用している現在のSNSが「帰りの会」と化しているのはその辺に原因があるのだろう。議論が「正しさと正しくなさの対立」だと思っている人間がこの世には多すぎる。Twitterは人類には早すぎたという冗談を時折見かけるが、あながち冗談でもない。

 

それでも、人々が声を上げやすくなったこと自体は良いことだと思える。というより、思いたい。埋もれていた声や見逃されていた視点が表出することによって世界が良い方向に向かうなら、それは歴史的なことだ。だからこそSNSの現状は残念でならないのだ。

 

この状況を打開するには、ユーザーひとりひとりがもっと賢くなるしかないのだろう。個人的には、最近よく見かける、疑わしいと思ったら罰して良いとか、その罰は自分たちで与えて良いだとか、モダンな法体系と真っ向から対立する前近代的な考え方だけでもやめてほしい。左様な考え方を止めるだけでも議論は成立しやすくなるし、その先にある目的達成だってぐっと近くなる。主張する側にとってもそれはメリットとなるはずなのだが、まあ難しいのだろうな。

 

こういう理屈を感情に変換して伝える手法が、何か無いものだろうか。

物を書くということなど

自分は何かを発信するのにあまり向いていない気がときどきする。本が好きで、つまり文章や様々なコンテンツが好きなので、書籍はもちろんブログやネットの記事などもよく読みふける。そうしてあれこれ考えるのが好きだし、ときには何も考えず、知識や知恵や情報を頭に入れたことにただただ満足感を感じるのも好きだ。それからすぐにブログなり何なりとしてアウトプットする類いの人とは違い、私はせいぜい妻と話をするくらいで満足してしまう。それで、何かを発信するのに自分はあまり向いていないのかな、と考えてしまうときがある。

 

十代や二十代の頃はそうでも無かったように思うのだが、実際今よりもずっとたくさんの文章を書いていたのだが、いろいろと経験を積み、また学んだりしてきた挙句、私がちょっと考えた程度のことは少し世間を探せば同じようなものが見付かるように感じて、気後れしてしまうようになったのだろうか。まあそんなことを言っても仕方が無い、あるならあったで多少違う部分もあろうというくらいの気持ちで書くくらいが良いのかもしれない。そのうち気にならなくなる日も来ようというものだ。

チームのストレスといったものを初めて経験している気がする

誰かの足を引っ張って忸怩たる思いをするとか、逆に誰かが足を引っ張るせいで苦杯をなめるとか、そういったチームならではのストレスに煩わされた経験が、私には皆無に等しい。学生時代は競技性の無い文化系クラブにばかり所属していたし、仕事もフリーランスのような形でやっているからだ。大抵は家に妻と二人で居て、それぞれパソコンに向かって仕事をしたり、あるいは別のことをして生きていると、なかなかそういう経験をしうる機会に恵まれない。

 

それでという訳ではないが、四月頃から、任天堂の『スプラトゥーン2』を毎日少しずつ遊んでいる。これは四人ずつふたつのチームに分かれてインクで地面を塗り合うオンライン対戦ゲームで、制限時間内により多く塗れたチームの勝ちという明快なルールが人気を博し、eスポーツの一競技として見る向きもある。ざっくり言えばチームスポーツの一種であって、もう少し言えば、私が初めて経験するチームスポーツである。

 

チームスポーツであるから、うまいプレイヤーもいれば、私のようにヘタなプレイヤーもいる。また少しずつとはいえ毎日やっていれば多少上達もするもので、私から見ても立ち回りの粗いプレイヤーというのもいる。スプラトゥーン2にはナワバリバトルとガチマッチという大きく分けて二種類のオンライン対戦があるが、ナワバリバトルと比較するとガチマッチではプレイヤーの巧拙が特に際立つ。そしてそれが勝ち負けに直結する上、かなり明確な形で決着がつくため、どうしても勝負意識が強くなる。要するに負けると大変なストレスを感じる。このストレスは概ね、冒頭に掲げた、足を引っ張ってしまったことや足を引っ張られたことに起因するもので、とにかく「思うように動けなかった」ことに強い憤りを感じる。

 

まあこればかりは頑張って上達するしかないので、妻に愛想を尽かされない範囲で努力を重ねようと思う。いつかウデマエSに辿り着いたら、今のことを懐かしく思い出したり、あるいは右往左往する新米イカを温かく見守ることができるようになるだろうか。

 

逆に、勝つと実にこの上ない愉悦を感じることができ、どちらも私にとっては初めて経験するものだ。勝利の美酒は敗北の味を知らなければ本当には楽しめないのだろう。なるほどチームスポーツというのも良いものだなと思う。

 

世に出て行く人間で、私同様に学生時代にチームならではのストレスを経験しなかった人は相当数いるのではないだろうか。そういう人が、社会に出て、就職し、会社というチームの中で急にかようなストレスにさらされたら、それはショックだろうなと思う。学生時代にチームスポーツを部活などで経験する意義があるとしたら、その辺にあるのかもしれない。

まえがきのような何か

いきなり記事を書いていこうと思ったのだが、まずはブログのテーマなどを表明すると良い云々と編集ページで勧められたので、まえがきのようなものを先に残しておくことにする。とはいえこのブログは一種の日記のようなもので、つまり日頃見聞したことだとか時事であるとか、そういったものへの感想や、それらに端を発する思索を書き留めておく場にするつもりだ。要するに自分のために書くので、そう大層なものではないし、読んで何か実になるものがあるでもない。何かの際にもしお目に留まることがあったなら、気軽にご笑読いただければと思う。